夫神岳で忘年会2018/12/03 18:37

温泉街手前で夫神岳を振り返る
 週末は夫神岳(おがみだけ)に登った。初日は別所温泉の宿に泊まりゆっくり温泉に浸かってから忘年会をした。一年の山行を振り返って話が盛り上がった。
 翌朝、宿を出た後、まず北向観音にお参りした。本殿はお城を思わす立派な石垣で囲まれていた。石段を登ると手洗い場で、温泉地らしく温泉が出ていた。お参り後、車道を登山口まで歩き、山道に入った。最初の植林が終わるとアカマツ林の急坂になった。進入禁止の赤テープの残骸が有るところを見ると、シーズンには松茸山になる様子だった。
 急坂が終わり、最後の緩い坂を登りつめると、山頂に着いた。やや広くなっていて、中央には小さな祠が二つ建っていた。西側の樹林の脇からは北アルプスが見えた。シートを敷き、ワインで乾杯して忘年会の続きをした。
 たっぷり山頂で休んでから下山を開始した。落ち葉の多い急坂をゆっくり下った。車道に出てから温泉街近くで振り返ると、登ってきた夫神岳がまだ大きく見えた。

ネパールのガイド2018/12/04 13:15

ガイドN氏
 今回歩いた箇所はガイドのP氏(34歳)もなじみが少ないとの事でアシスタントガイドのN氏(47歳)が加わり、二人のガイドに四人の客の構成だった。今はカトマンズに住むN氏は、出身が今回歩くコースの途中との事だった。そして前日まで同じコースでドイツ人グループのガイドをしていたとの事だった。おおむねN氏が先頭を歩き我々4人が続き最後をP氏が歩く順番で進んだ。キャンプ地に着くとガイド二人が我々のテントを設営し、次に自分たち二人用のテントを張っていた。荷物はポーター達が持ち、N氏達ガイドのザックは我々が一泊キャンプで担ぐ程度の大きさ、45リットルザック程度だった。ガイドが楽をしているかというとそうでもなく、一度、水場から離れた峠にテントを張った時、N氏はポーターと二人で1時間以上かけ、大汗をかきながら20リットル入りのポリタンク2個分の水を汲んできてくれた。
 N氏は道に精通していて、必ず景色の良いところを選んで休んでくれた。逆に危ないU字谷の所は、メンバーが休みたいと音を上げても、1時間半休み無しで歩き通した。樹林帯の中の小さな小屋前を通った時に我々が休みを申し入れたにもかかわらず、N氏は、もう少し行くと先に進んで行ってしまった。我々が休憩後に1-2分歩くとN氏が休んでいるところに着いた。どうやらN氏は更に2-3分先の眺めの良い沢で休みたかった様子だった。沢は上方に6000m峰を望む展望の良い場所だった。
 最終日の三日前、我々は温泉に泊まった。この時、N氏は更に歩いて1時間下った出身地の家に泊まる事にした。14日間で、この日だけは別行動になった。宿泊地の温泉から対岸の崖をゆっくり登って行くN氏が見えた。翌日、N氏出身地のすぐ下を歩いて行くとN氏が待っていた。P氏にスマホを渡していたので、P氏に頼まれて充電もしていた様子だった。N氏実家に住んでいるお兄さんも見送りに来ていた。その日の晩はロッジ裏のバナナ畑の中にテントを張ってもらった。最終日前日との事で、ガイド、ポーター達と一緒にお酒(ロキシ)を飲んで打ち上げをした。N氏も我々もネパールの踊りを踊って楽しんだ。
 翌最終日、N氏の荷物は手提げ袋一つだった。どうやらロッジに荷物を預けた様子だった。そして我々のうちの一人の荷物を持ってくれた。1時間半ほど下ると車の待つ車道の終点に着いた。N氏は今日は歩いて実家に戻りカトマンズには5日後に帰るとの事だった。そして我々に手提げ袋の中味のバナナ一房をくれた、一人道を登って戻って行くN氏の後ろ姿を見ながら「14日間ありがとう」と心の中で言った。

ネパールの もう一人のガイド2018/12/05 13:19

P氏を先頭に氷河へ向かう
 ダウラギリトレッキングのコース案を作ったのはガイドのPさんだった。前半は山村を巡りながらダウラギリを遠望し、後半はダウラギリの絶壁を間近に見ながら氷河まで歩く好コースだった。P氏にはテントの向きに気も使ってもらった。入口を傾斜の低い方にし、出入りする場所が狭くなってしまう場合は90度回転して張り直してくれた。温泉では、最初にポーター達が張っていた場所が湯船から細い坂道を30m程登った管理棟の前だったのを、湯船やトイレに近いあずまやの中に張り直してくれた。あずまやの中は狭い場所で、30cm位の大きな石がテント横にぶつかっていたので、持ち上げて脇に移動してくれた。雪の付いた下りでは、苦心しているメンバーにP氏が持参の軽アイゼンをつけてくれた。
 P氏は日本語も上手で我々の通訳にもなってくれた。帰りの村では、可愛い5-6歳の子供達3人が寄ってきた。こちらから「ナマステ(こんにちは)」と挨拶をすると、「ナマステ」と返事を返された。ところが、そのうちの一人から「Give me sweet」と言われた。「ろくでもない言葉を覚えて」と独り言を言いながら子供達から遠ざかると、聞いていたP氏が「お菓子をほしかったんでしょう」と子供達のために言い訳をしていた。P氏の優しさが垣間見えた思いがした。
 山道の途中で休んだ時に、メンバーのサングラスのレンズ片方がいつの間にか外れて無くなっていた。回りには見当たらずあきらめて出発することにした。全員出発後、P氏は何も言わずに一人探しに戻ってくれた。どこまで戻ったのかしらと心配しているうちに30分程してから追いついて来た。あいにくとサングラスのレンズは見つからなかったとの事だった。
 最後の宿泊の打ち上げ前には、挨拶で使うためP氏からネパール語の「また会いましょう(ベタウンラ)」を教えてもらった。せっかく教えてもらったのに踊りで盛り上がったため挨拶はせず、「ベタウンラ」も使うことは無かった。最終日、迎えの車に乗り込みポーター達と別れる時、P氏がこっそり「昨日使わなかったけれど、また会いましょうはベタウンラです」と思い出させてくれた。ポーター達に「ベタウンラ」と言いながら手を振って別れを告げる事ができた。

ネパールのキッチンスタッフ2018/12/06 20:43

食事を作るキッチンスタッフ
 ネパールのトレッキングでは料理長1人とキッチンスタッフ3人の合計4人が、朝昼晩三食の料理を作ってくれた。作るだけでなく、食事に関する荷物の運搬も担当していた。籠に食器や食料の大部分、燃料の石油、石油コンロを入れて運んでいた。最初の頃は籠の編み目からたくさんのパスタの箱が見えていた。途中の畑で青菜を調達するたびに籠の一番上に載せて運んでいた。日を重ねるにつれて荷物は軽くなるのに、一番年長の50代のキッチンスタッフの荷物は食器だけで食糧が無かったため、いつまでも同じ重さなのは少し気の毒だった。料理長の方は卵約60個を三段のケースに入れて手に持って運んでいた。籠に入れたのでは割れてしまからだろう。
 料理後の食器洗いも、もちろんキッチンスタッフの仕事だった。みんなの食事が終わった後、粉石けんを使ってゴシゴシと洗っていた。標高が高くなると、水も冷たくなった。冷たい水で素手で洗うのは大変そうだった。
 トイレの無いところで宿泊する時は我々用にガイドとポーターがトイレテントを建ててくれた。トイレテントは中央の地面に深さ20-30cmの穴をピッケルで空けてくれた。用を足した後は、脇に積んだ土を手でかける方式だった。土をかけた後は臭いもせず、意外に清潔感があった。手で土をかけると手が汚れるので持参の小さなスコップを使うことにした。これに気が付いたガイドのP氏が、気を利かせてスコップも運んでくれることになった。結局、キッチンスタッフが食器の籠に入れて一緒に運ぶことになった。食器とトイレ用のスコップが一緒なのは少し気になるところだった。
 トレッキング終盤になると食料も減って荷物も軽くなってきた。料理長の持つ卵も最後の日には無事無くなっていた。

ネパールのポーター2018/12/07 11:36

たき火を囲んで
 今回のトレッキングのポーターは若い男性8人だった。一番若いポーターP君は、まだあどけなさの残る19歳だった。二日目の急登で追い抜いた時にP君は足首をさすっていた。どうやら足をひねった様子で、ガイドも心配そうに見ていた。何とか持ち直したようで、その後は他のポーターと一緒に歩いていた。荷物は一人30kg弱だった。荷物の後ろ、下から1/4~1/3位の所にかけた紐を頭まで伸ばして額にかけて担いでいた。30kg近くあると一人で持ち上げるのは困難で、もう一人が後ろから持ち上げながら立ち上がっていた。よくしたもので、トレッキングコースの休憩所には椅子の代わりに約1mの石の台がしばしばあった。台の上に荷物を置くと、出発時に一人で立ち上がる事ができた。靴は半分くらいの人がサンダル履きだった。
 ポーターは荷物を運ぶ以外に、テントの設営や撤収も手伝っていた。テント設営後に夕立で雹が降った時が一日有った。土砂降りの中、テントの回りでガツガツ音がするので外をのぞいてみたら、P君が濡れながらピッケルを使ってテントの回りに雨水用の溝を掘ってくれていた。ポーター達の食事は我々とは別だった。たき火をたいて自分たちで作っていた。最初は火が点きにくいので、燃料の石油をポリタンの蓋に少しだけ入れ、まだ煙だけでくすぶってるたき火にかけて火をおこしていた。そして米と水を入れた鍋をたき火にかけていた。高所順応で3600mのイタリアンベースキャンプで2泊したときは、ポーターにとっても休養日だった。午前中のハイキングが終わった後は我々もぶらぶらしていた。陽が当たって温かくなった午後の小屋前で、ガイドやポーター達がトランプを始めた。白熱した様子で、3時を過ぎて日が陰って寒くなってきてからも続いていた。
 4100mへのジャパニーズベースキャンプへは、雪の付いた道や氷河を歩くコースだった。今までサンダル履きだったポーターもこの日は運動靴を履いていた。一泊だけして、イタリアンベースキャンプに戻ってくる事もあり、ポーター中の二人は留守番になった。うち一人は途中の急坂のところまで空身でサポートに来てくれた。滑りやすい急坂の下りではメンバーの荷物を担いでくれた。ジャパニーズベースキャンプが近づくと、今度は先に着いたポーターのうちの二人がサポートに来てくれて、氷河末端の沢を渡るのに手を貸してくれたり荷物を持ってくれたりした。帰りもイタリアンベースキャンプから留守番のもう一人のポーターがピッケルを持って迎えに来てくれた。急な登りをピッケルでステップを作ってくれ、荷物も持ってくれた。
 トレッキングの終盤、樹林帯でキャンプした時、ポーター達がたき火をしていた。温かそうなのであたらさせてもらった。ポーター達は、火の粉が飛んでかかりそうになる中、陽気に歌を歌っていた。この際だからと、我々はゴミ袋に入れていた紙ゴミやプラ製のお菓子の包み紙を燃やす事にした。ゴミは景気よく燃えた。ねらいが狂い、そのうちの一つがひらひらとたき火の熱で10m位舞い上がって暗闇に消えていった。

登り下りの多かった北高尾山稜2018/12/23 14:27

城山付近の名残の紅葉
 12月14日に北高尾山稜を登った。8時前に歩き始めた。天気は快晴だった。放射冷却のせいで寒い朝だった。回りの草木には霜が降りていた。
 一登りすると最初のピーク城山に着いた。付近には名残の紅葉が見られた。天守閣跡のピークを過ぎ、富士見台まで登ると富士山が正面にきれいに見えた。高ドッケ、黒ドッケと小さな峰を登り下りした。植林帯が多く日が陰って寒かった。ようやく黒ドッケの先で落葉樹の森になり、気持ちの良い稜線歩きになった。大嵐山、三本松山と小さなピークを登り下りしながら進んだ。
 最後に笹原混じりの尾根を登ると北高尾山稜の最高点、堂所(どうどころ)山に着いた。14時半近かった。山頂のベンチに腰を下ろして一休みした。北高尾の名前に少しだまされ、なめてかかっていたので、思いの外大変だった。食料はすでに食べ尽くしていた。
 空腹感に耐えながら陣馬高原下のバス停に下山した。暖かなバスの中に入って、ようやくほっとした。

石見寺山のミニ八十八箇所巡り2018/12/24 14:02

石見寺山の第八十七番石仏
 高知県最初の山は石見寺(いしみじ)山だった。中村駅から車道を安並(やすなみ)運動公園まで歩き、更に石段を登って、まず石見寺にお参りした。立派なお寺だった。山道に入ると道脇に石仏が時々現れた。石仏の横には「第二十八番大日寺」などと記載された札が有り、どうやら石見寺山に登って一周するとミニ八十八箇所巡りができる様子だった。
 石仏を見ながら照葉樹の森を登って行くと第四十四番石仏が有った。更に少し登ると山頂に着いた。展望が良く、四万十川と太平洋が見えた。下りは途中で石仏の道を離れ、尾根伝いに踏み跡を進む事にした。こちらも照葉樹の森だった。展望はほとんどなかった。緩やかに下って行くと送電鉄塔が有ったので一休みした。
 送電鉄塔からは尾根を離れ、四国電力の巡視路を利用して斜面を下った。道はしっかりしていた。小沢を渡る箇所にはスチール製の桟道がかけられていた。しばらく下ると竹の倒木が多くなった。乗り越えたりくぐったり押しのけたりしながら苦労して下った。どうやらあまり歩かれていない様子だった。本当に正しい道か何度かGPSで確認しながら下った。
 ようやく涸れ沢の谷に着くと、正面が目的の石鎚神社だった。ほっと一安心した。ここからは石仏の道に合流し、車道を安並運動公園へと向かった。途中には、周りを水仙に囲まれた第八十七番石仏と、菊の花が供えられた第八十八番石仏が有った。

妹背山の展望台2018/12/25 13:07

妹背山山頂
 高知県二つ目の山は宿毛(すくも)港から船で約50分の沖の島にある妹背山(いもせやま)だった。前日に船で沖の島の母島(もしま)港に向かった。波の高さ2mで向かい風のこともあり、船は揺れが大きかった。宿は港のすぐ目の前だった。宿の部屋からは港の夕陽がきれいに見えた。
 翌日は宿から歩き始めた。登山口からは照葉樹林帯の山道になった。緩やかに山道を登っていくと山頂に着いた。テニスコートほどに切り開かれ、丸太で作られた高さ約6mの展望台が有った。上からは海の眺めが良かった。展望を楽しんだ後、帰りは母島とは反対側の弘瀬(ひろせ)に下山した。弘瀬からは、ほとんど車の通らない車道を1時間半ほどかけて母島に戻った。途中で標高約120mまで登る必要が有り、思いの外大変だった。中間点を少し過ぎたところには白岩岬の公園が有り、白い岩の海岸がきれいだった。母島では帰りの船まで30分ほど待ち時間が有った。最初は閑散としていた港も船の時間が近づくと10人ほどが集まってきた。数人の乗客と供に帰りの船に乗り込んだ。帰りは追い風になったせいか行きほどには揺れなかった。
 下船時に同じ船室にいた40歳代の女性に「妹背山に登ったのですか」と聞かれた。「はい、山頂には展望台が有りました」と答えると、「ボランティアで私も加わって作ったんです。周りの木を切り開いて作ったんです。最初は鉄の展望台でだったんですけれど、後で木の展望台に作り替えたんです」と教えてくれた。
 下船後、歩いていく我々4人に、女性が「どこまで行くんですか」と聞いてきた。「駅まで30分歩いて行きます」と答えると、女性は「人数が少なければ乗せてあげるんですけれど」と言いながら港に駐車してあった軽自動車に乗り込んで行った。「どうもありがとうございます」とお礼を伝えると、女性は我々に挨拶を返しながら港の道を走り去っていった。